To the moon and back.

関西在住30代OL。日々のつれづれをぼちぼち綴ってます。内容は、お買い物ログ・婚活のやきもき・仕事のあれこれ・読書記録・雑記(ただの日記)多め。

理性的だという言葉の裏

 昔からよく「晴ちゃんは理性的だから」という言葉を知人に投げかけられた。その真意は、こうだ。「もっと感性で生きたらいいのに」「感覚で生きればいいのに」。知人から見ると私はどうやら石橋を叩いて渡るようにみえるらしい。その言葉を聞く度に、ちょっと落ち込んでいた。自分を否定されている気がして。

今思えば、言葉に捉えられすぎていた。理性的で何が悪い。私は物事を深く味わって考えないと、先に進みたくないタイプだ。人の一面だけを見て、理性的だからどうのこうの、と言うのは違うんじゃないかと思う。それに、結構感覚的な部分も持ち合わせていると自分では思っているので(突発的で感覚的な行動に、たまに人にびっくりされることがある)、しっくりこないのだ。逆に「あの人感覚で生きてるよね」と言われる人も世の中にはいて、それも暗に「もう少し頭で考えて行動しなさいよ」と伝えているようなものだし、いい気はしない。

なぜこの話をしたかというと、先日婚活の仲人さんにこう言われたからだ。「晴さんは理性的、理屈っぽいからねー。いや、理性的というよりは、男性に対して採点モードに入っちゃってるのかもね」おっ、と思ったからだ。理屈っぽいと言われたのは心外だが(これって悪口の一種じゃない?仲人さん、もうちょっと言葉選んで―、と思うことが多々ある)、採点モードに入っているというのはなるほどな、と思った。理性的という言葉はあいまいワードだから、そう言い直してもらえるとちゃんと納得する。

結局、自分が認められたい人に自分を理解してもらえるだけでいいんだと思う。人の意見やアドバイスに耳を傾けなさいというのは間違っていないが、相手の言い方や言葉のチョイスで自分が傷つくことは無いんだよな。