To the moon and back.

関西在住30代OL。日々のつれづれをぼちぼち綴ってます。内容は、お買い物ログ・婚活のやきもき・仕事のあれこれ・読書記録・雑記(ただの日記)多め。

ペンネームの贈り物と、心に棲むもう一人の少女について。

このブログを書くにあたって、私は「晴」というハンドルネームを使っているのだが、実は高校時代から使用しているペンネームだ。正確には、親友と行っていた交換ノートを始める際に付けた名前である。

で、なんでペンネームを「晴」にしたんだっけ…とふと記憶を掘り起こしてみた。ちなみに晴という漢字も名前も、自分の本名には一ミリもかすっていない。

 

そして思い出した。もちろん簡単に書ける名前にしたかったというのも、短めのペンネームを付けることで友達との”秘密感”を共有したかったのもあるけれど、思い返すと「晴」という名前は祖母から(勝手に?)貰ったものだった。

 

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当事者の祖母はすでに亡くなっているのだが、小学生の頃は週に何度か会って、いろんな話をしていた。本がすきなおばあちゃんで、私も幼少から本の虫になったのは隔世遺伝の感もある。

そんなある日、多分小4くらいの頃だと思う。いつものように母の仕事が終わるまで祖母と二人で過ごしていたのだが、何の流れか、祖母がふと口にした。

「おばあちゃんはな、昔しんどいことやつらいことがあった時に、心の中にもう一人の女の子に名前をつけて、『◎◎ちゃん、がんばろ!』って言って励ましていたんやで。」と。

この話を聞いて当時の私は心底驚いた。祖母と全く同じことを心の中で行っていたから。

もちろん心の中で付けている自分の名前は違うし、どっちかというと理想を固めた少女像になっていたけれど(笑)、『心のもう一人の少女に呼びかける』というのは同じだった(自分と似ているけれど、私とは違う理想の少女に重ね合わせるというのがとても重要なポイントだったように思う)。

と言う訳で、高校時代にそのエピソードを思い出した私は、祖母がつけていた心の中の少女の名前から一字を拝借し、「晴」というペンネームをつけたのだった。

(おばあちゃん、一文字だけならここに書いてもいいよね。笑)

 

 

大正生まれの祖母は、医者から「身体が弱いから生きられて7歳まで」と言われていたそうで、不憫に思った曽祖父が、姉妹の中で一人だけ無理をして女学校に入れてくれたと話していた。当時の社会情勢からして、女性が教養を身につけること自体が珍しかったようだ(ちなみに、その女学校の系譜を持つ高校を私が受験して合格した際、祖母はとても喜んでいた)。

喜ばしいことに、結果的には80歳以上生きた祖母だが、太平洋戦争で飢えを経験したり、戦後も社会に出て男性社員に混じり女性一人で働いていたりと、なかなかの波乱エピソードを持っていた。その中で夫(私にとっての祖父)と出会い、子どもたちを授かり育て上げていたから、今思うとその苦労は計り知れない。

今振り返ってみると、私が”しんどい”と思うことと祖母が”しんどい”と思うことには、物理的にも精神的にも圧倒的な差があったと思う。そんなことは小4の私は全然分からなかったけれど、「大好きなおばあちゃんが自分と同じことをしてる!わーい!」と純粋に嬉しかった。でもちょっと恥ずかしくて、「私もおばあちゃんと一緒だよ!」とはなぜか言えなかった。

 

なぜあのタイミングで、「心の中のもう一人に話しかける」話を祖母がしてくれたのだろうか?

 

今ではその答えを聞くことは出来ないし、たまに「今の私を見て、おばあちゃんならどう言ってくれるんだろう」と思う。コロナの状況を見てどう感じているんだろうか。毎日大小問わず、他愛のないことで悩み続ける私を見てどう感じているんだろうか。分からないけれど、きっと祖母にとってはちっぽけなことなんだろうなあ、と思うと少し楽になる。いつまでも偉大な祖母だ。

 

ちなみに私自身の「心の中に棲む少女(私と同い歳の設定だったので、同じくアラサーになっている)」はどうしているかというと、頻度こそ減ったけれど、眠れない夜にたまにひょっこり顔を出して「大丈夫?」と声をかけてくれる(…という空想を私がする。ややこしいw)。20代のある時期には全く私の心に登場しないこともあって、その時期は”リアル”が忙しいときだったみたい。かつて私と似た生き方をしていた心の中のあのこは、現状の私とは異なる人生を歩んでいるようだが、友達やパートナーを引き連れて、時には一人でやってきて、今でも私を励ましてくれるのだ。