To the moon and back.

関西在住30代OL。日々のつれづれをぼちぼち綴ってます。内容は、お買い物ログ・婚活のやきもき・仕事のあれこれ・読書記録・雑記(ただの日記)多め。

代わりに誰かが怒ってくれる

世の中、声を挙げていかないと変わらない課題が沢山ある。政治もそうだし、私は学生時代の専攻がジェンダーだったこともあり、女性とフェミニズムというトピックには人より敏感だと思っている。最近では『MeToo』等がホットトピックだったが、つくづく生きづらい世の渦中に生きていると実感する。

 

声を挙げるということはエネルギーを伴う。自分がそこそこ元気でないと「怒る」ことは難しい。怒り疲れてしんどくなってしまった、どうせ声を挙げても何も変わらない、無気力になってしまったという人も見てきた。

 

そんな時Twitterで、恐らくジェンダー関連のトピックだったと思うけれど、「怒るのは精神的にもしんどいでしょう。だから、あなたが怒れない時は私が代わりに怒るので、遠慮なく休んでね」といったツイートを見た。全然知らない人だったけれど、すごく救われたような気がした。別に休んだっていいのだ。自分がしんどい時は、誰かが自分の分まで声を挙げてくれる。目から鱗が落ちるようだった。

 

とまあ、社会問題から話を始めてしまったが、これは個々人の悩みでも同じなのかなと思う。自分がしんどいなあと思う時に、家族や友人等信頼できる人が、自分の代わりに怒ったり悲しんでくれると、ほっとして嬉しくなるのと一緒だ。

 

駅伝に例えるなら、理想という名のゴールテープを切るためにみんなで走る。疲れてヘロヘロになってしまうが、「代わりに走っとくから!バトン渡しな!」と言われて、仲間にバトンを託す。そんな感じだ。

だから今、走れるコンディションなら、バトンを少しでも繋ぐために駆け抜けたい。もし走れなくなったら、申し訳ないとか思わずに遠慮なくバトンを託して、自分はちょっと休憩しよう。仲間が倒れそうになったら今度は自分がバトンを繋ぐ番だ。それまでの充電期間として。