学生時代、ある時友人が私に告げた。
「私、長く付き合ってきた彼氏と別れようと思ってる」
「え、そうなの?どうして?」
聞き返すと、彼女はこう答えた。
「我ながらいい表現だと思ったんだけど。彼と私とで、物事を捉える時の”明度”は一緒なんだけどさ、何だか”彩度”が違うんだよね。絶対的に嫌いになったとかじゃないんだけれど、引っかかってしまって」
ふむ。分かったような分からないような。この時、私はどちらかというと、「友人は明度と彩度の話を彼に伝えて別れるのか?」ということの方が興味があったので(笑)、深掘りはしなかった。その後、彼女は正式に交際を終わらせたという。
最近この会話を思い出したので、私なりに考えてみた。
◆色相(元々は赤やオレンジといった、色みの種類のこと)=物事の事象そのまま
例:「近頃は公園に人が増えている。」「病院に電話がつながらない。」「配達物が届かない。」
◆明度(元々は明るさのこと)=物事の事象に気付くかということ
明度0%:「(公園に人が増えているということにそもそも気付かない)」
明度50%:「近頃は公園に人が増えている”気がする”」
明度100%:「近頃は公園に人が増えている。(=確信)」
◆彩度(元々は鮮やかさのこと)=物事の事象の解像度の度合い
彩度0%:「近頃は公園に人が増えているが、理由は全く不明。」
彩度50%:「近頃は公園に人が増えている。行き場のない子どもたちがたくさんやって来ているのが原因のひとつだろう」
彩度100%:「近頃は公園に人が増えている。行き場のない子どもたちがたくさんやって来ているほか、高齢者の貴重な運動の場になっていること、運動不足の働き世代も場所を探してやって来ているからだろう」
こんなところだろうか。
明度は一緒なんだけれど、彩度が違うというのは分かるような気がした。
実際、自分の”彩度”が高すぎて相手と話が合わなかったこともあるし(逆も然り)、そもそも明度がぼんやりしていると彩度を高めようがない。
でも、人間関係においてはその違いを認めたり、許しあったり、教え合ったりすることで物事の明度と彩度を上げていくこともできる。それが自分達の居場所やコミュニティ、主語を大きくすれば社会を居心地よくすることに繋がるんだろう。ただし、「自分が恋人やパートナーにどの程度の明度・彩度を求めるか?」はまた話が違ってくる気がする。やっぱりある程度は、明度や彩度が一緒の人といた方が楽だもんね。厳密な定義は違うだろうが、明度と彩度が一緒=「解像度」が一緒というとしっくりくるかも。